IN TRANSITで支援するクリエイターと国際的な場で活躍するアーティストや表現者との対談企画。先日、国際芸術祭「あいち2025」で新作『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』の上演を行ったオル太からは、演出を担当するJang-Chi(チャンチ)さん、台本を執筆し俳優としても出演するメグ忍者さんが登場。対するは、台湾出身で現在はパリと台湾を拠点に活動するアーティスト、キュレーターであるリヴァー・リンさん。オル太の作品を観続けているリンさんが、新作『Eternal Labor』を鑑賞後、オル太の2人にインタビューを行いました。


国際芸術祭「あいち2025」
オル太『Eternal Labor』 https://aichitriennale.jp/artist/olta.html


後列左から時計回りにオル太のJang-Chiさん、リヴァー・リンさん、オル太のメグ忍者さん

「イデオロギー」や「労働」といった
見えないものをどのように身体で表現するか

リヴァー・リン(以下リン)
『Eternal Labor』を観に劇場空間に足を踏み入れると、そこはゲームセンターのようにつくり変えられていて、観客がビデオゲームのインスタレーションを実際に動かしながら、空間を立ち上げていくような感覚があって、とても驚かされました。最初は遊び心にあふれた空間だったのですが、作品が進むにつれて、次第に暗くて深い「ラビットホール」へと引き込まれていくような感覚に変わっていきました。上演中スクリーンには、鉱業の歴史を起点にした時間をリアルタイムでカウントアップする時計が映し出されていました。

この「採掘」というテーマは、コロナ禍の2023年に上演された『ニッポン・イデオロギー』を思い起こさせました。日本が抱えている課題や社会問題を捉え直し、掘り下げていく姿勢が『ニッポン・イデオロギー』から継続しているように感じました。そこで、『ニッポン・イデオロギー』からどのような要素が残り、またどのような点が変化・発展して『Eternal Labor』へとつながっていったのか、お聞きしたいと思います。

Jang-Chi
オル太の活動では、近代化の背景にある歴史の出来事がどのように現在に影響を与え、それを舞台上で表現するかについて継続して取り組んでいます。『ニッポン・イデオロギー』では、イデオロギーについてこれまでも多くの方が著作を残していますが、例えば戸坂潤の『日本イデオロギー論』(岩波文庫)といった著作を参照したり、公的文書に残された天皇の発言や時代歌謡などに関心を寄せました。台本には、そうした過去の言説からイデオロギーに結びつくような言葉と、メグ忍者のテキストが並列する、引用や参照が多い戯曲でもあります。

メグ忍者
オル太の作品に『超衆芸術 スタンドプレー』(2020)という作品があって。その作品では、オル太の全員が日常に潜む無意識的な動作や振る舞いについてのリサーチをして、全員で台本を記述するという手法をとっていました。書き方としては、登場人物固有のキャラクターを固定するのではなく、都市の中での匿名性、無名性を意識してまとめていきました。私が主に書くようになってから(『生者のくに』(2021)以降)は、これまでのスタイルを踏襲しつつも、日常会話に着目し執筆しています。

『ニッポン・イデオロギー』は、日常における言葉や会話の中から、ふとしたときに出てくる“イデオロギー”を集めることで、何が見えてくるかに着目しています。そうした言葉と、日本の中で共有されている公的文書や天皇の言葉を並べた時にどう感じられるか、という挑戦にはなっていたかと思います。

Jang-Chi
『Eternal Labor』は、炭鉱という切り口から資源に着目し、資本主義や民主主義をどう捉えるかを考えた作品です。そこが『ニッポン・イデオロギー』とは大きく違う点だと思います。演出面での根本的な考え方は変わらなくて、オル太ではモノや装置、環境からいかに身体を立ち上げられるか、それをコミュニケーションの乗り物や媒介、いわばメディアとして捉えながら作品を制作しています。

『ニッポン・イデオロギー』では、イデオロギーと平均は繋がった概念だと考え、演出では“平均化”を意識していました。主に舞台は、平坦な床です。『Eternal Labor』の場合は、資本や資源という点からエネルギーの表現方法について考えながら制作をすすめ、今回は乗り物や移動に対しての“負荷”をより露にしようと思いました。空間にいくつかのスロープがあり、俳優がスロープを上り下りする動きが多い。どちらの作品でも、共に概念的な上部・下部構造を意識していますが、『Eternal Labor』の場合は、スロープ等の舞台装置や舞台空間の中で断片的なシーンがちらばることによって、可視化しています。

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会

登場人物の動きやふるまいに表れる
植民地加害の歴史、日本と韓国の関係

リン
作品を見た印象では、日常における身体の表象、日常における身体の在り方といったものが提示されていたように思います。特に『Eternal Labor』の場合は、キャラクターの出身や肩書きといった背景があり、権力構造的にも様々な階層の人が登場しますが、共通しているのは、みんな社会から落ちこぼれた存在というか、周縁化されてしまった存在、ありがたがられていない存在の表象として描かれているのかなという印象がありました。次の質問は二点あります。一つはそのような人たちを舞台上に上げ、作品に登場させる時に、どういう身体言語を用いて居るのか、どういった動きやしぐさで表現されているのかをお聞きしたいです。

もう一つは、作品で取り上げられている歴史上にある社会的な問題——例えば炭鉱のこと、日本の植民地加害の歴史、そして特に日本と韓国の関係については、私の理解では現在進行形の問題だと思っています。この作品で問題提起をすることによって、どういうアクションを起こしたいと思ったのか、その狙いについてお聞きしたいです。

Jang-Chi
役によって、どういう身体言語を取り出そうとしているのかという質問ですが、役が舞台上でどう存在して欲しかったかという、演出上の狙いについてお話します。ひとつは“機械化された身体”です。甲冑を着たゲームセンターの店員のモデルは、レストランやショップにあるような「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」といったいくつかのキーワードしか言葉を発さないロボットです。また、映像クリエイターという役は、俳優が顔に3Dホログラムディスプレイを装着します。彼女は映像を編集しているんですが、ディスプレイにはやりたくない仕事をやらされているという不安を吐露するような言葉が流れています。

日常の負荷をどう表すかということについても、舞台上で様々な試みをしています。例えば、からだに何かを入れて外に出すこと。食事のシーンも多く登場しますし、加えて経血や尿といった、生理的に体外に排出されるものを見せることを意識しました。また、甲冑を着た俳優がスロープの上に立ち、ステンレスの2メートルくらいある長い定規を持って、頭に乗せて静止したり、定規の端を手に持ち揺らしながら歩いたりします。それは、物差しにおける緊張と発話の関係を考えて加えたシーンです。また、女子高生のミキがChatGPTと対話をするシーンがあるのですが、彼女の目がクローズアップされ、目の動きによってChatGPTと対話するということを試みました。それも身体の一部が動くことで何が表現できるかということに挑戦しています。

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会

メグ忍者
最初にテーマとして“女性”と“労働”を考えていたんですが、すごく広いテーマだし、女性っていってもひとくくりに語れない部分があるなと思いました。参照した作家・森崎和江の書籍『第三の性』は、2人の女性がそれぞれの立場で対話する往復書簡なんですが、子どもを持つか持たないかという話でも、一方は病気で子どもを持てない、他方は子どもがいるという立場で語っている。女性と労働を考えることは、“女性の身体”について考えることなのだと思いました。労働については、最初に北九州、福岡の炭鉱を見学し、後に韓国の炭鉱も訪れました。常に現代との結びつきを考えながら、フィールドワークを行っていて。

台本には、力仕事は無理だと言う人、なるべく楽をして働きたい人、常に稼げる方法を模索している人等、様々な労働観が登場しますが、人生の中で占める割合が最も大きいのが労働であることを描いています。また、先ほど女性が子どもを持つか持たないかという話をしましたが、それと同じような二項対立的な要素を全編にちりばめています。人生の中では実際に二項対立するものを選択しなければならない瞬間が多数あるわけですが、選択するとはいっても、自分で選ぶというよりは状況や環境によって選ばされているものが少なからずある。例えば子どもを産む、産まないはその代表例かもしれませんが、性と人生における選択はすごく結びつきが強い。この作品では、そうした対立が人の生き方にどのようにつながるのか、を伝えたかったのかなと思います。

リン
身体性ということをもう少し話すと、特に労働の身体をどのように舞台に上げるのか。舞台における身体には、いくつか種類があるように見えました。まずはゲームセンターのアルバイト、コンビニの店員、シングルマザーが2人登場しますが、家の中の家事労働、養蜂の仕事、塾講師……。そういうものもあれば、地中から這い上がるといったような抽象的な労働の表現もありました。労働自体の拡張、振れ幅みたいなものがあって、歴史と地続きにある、今の現代社会の中でどういう労働があるのかというサンプルにも見えました。

特に気になったキャラクターは、2人の女子高生と、インフルエンサーと映像クリエイターの2組です。その2組が、一番劇中で存在感を放っているように見えました。2組に共通するのは、ちょっと重過ぎるかもしれませんが、彼らが感じる途方もなさ、絶望感なのかなと。生きるためのモチベーションがあまり高くはなく、自分たちは何故生きていなきゃいけないのか、ということをずっと問い続けている。インフルエンサーと映像クリエイターがコンテンツを作っているのは、お金と承認欲求のため。わりと前半のシーンで彼らが蜂を退治する映像を撮るけど、その時に「これで一発当てる」といったような台詞がありました、ということはまだ彼らはバズってはいなくて、有名になりたい人なんだなと。一方2人の女子高生の会話もすごく暗くて、希望が感じられない。そこでも絶望感を感じるし、同時にお互いに依存し合うような関係だとも言える。この2組が劇中で、すごくエモーショナルな存在として機能しているのは、いまの社会の状況を反映しているからなのかもしれません。社会階層の底辺にいて、出口が見出せないという。ひとつ不思議だったのは、麻生の存在です。優しい人として現れるんだけど、ずっといるわけではなくて、どこか登場人物たちと距離感がある。その存在も気になりました。

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会

メグ忍者
女子高生2人については、名前からもわかるように日本人と韓国人の女子高生で、加害・被害の関係を象徴的に扱っています。彼女たちは学校でも勉強しているのに、さらに塾でも勉強していて毎日疲弊している。しかも、学校や塾という場は、勉強での優劣が目に見えてはっきりする場であり、そこで亀裂が走り始める。また、2人ともが見えない労働を閉鎖的な空間で無理強いさせられており、希望が見出せない状況にある。麻生という役は、その土地の権力者です。モデルにしたのは、福岡を拠点にする鉱山の経営から始まった財閥です。資本家なので、いつでも現れたり消えたりすることができるし、時には助けにもなることもあるけれど、人間をどのようにも使うことができる人の象徴として登場させました。

リン
観客にも幅広い世代の人がいたのが印象的でした。私たちよりも上の世代の方々は、日本の植民地化や加害の歴史というのを踏まえて観ていらしたと思うんですけど、それより若い世代、ミキやジウンみたいなZ世代の人たちはどのくらい関心を持って観ると思いますか?

Jang-Chi
公演自体は、かなり幅広い年齢の方に観ていただけだと思います。でも、Z世代の人たちとはあまり話せていないので、ぜひ意見を聞きたいですね。日本と韓国とでは歴史の教育の仕方が異なると思うので、どのように見えるのか興味があります。

リン
今回の作品では、公演だけでなくインスタレーションの形でも作品を開いていて、展示空間はゲームセンターのようでした。また、ラストでインフルエンサーがVRのデモに参加しますが、この終わり方には驚きました。どういう風に作品を終えるのかというのは、作者にとっての現時点での回答のように思えたんです。出口が見つからない閉塞的な状況にあるキャラクターたちの行く先は、VRの世界なのかなと。質問としては、デジタルカルチャーやアバターの存在、テクノロジーといったことを、作品に取り込む時に、どう機能して欲しいと思われたのでしょうか? また、テクノロジーと作品との関連についてお聞きしたいです。

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会

Jang-Chi
今回ゲームを制作してインスタレーション的に展開したことの理由は、ひとつにエネルギーの問題を身近に捉えたかったということがあります。デジタルデバイスや液晶は鉱山から採掘されたものから作られているし、パソコンやスマホはただ使っているだけで小さなゴミ(キャッシュ)が貯まっていく。蜂の巣というのも、蜂たちのエネルギーから作られています。展示では役割を終えた蜂の巣を使ってオブジェクトを作り、ゲーム内では蜂蜜を採取したり、ポストビーヒューマンが路上でデモを起こしたりすることが追体験できます。また、今回の作品を制作する際に参照した、17世紀オランダ出身の医師であり思想家のバーナード・マンデヴィルが『蜂の寓話』という本の中で、労働と経済のあり方を蜂の巣を社会の比喩として用いながら論じているんですが、資本主義という言葉がまだ一般化していない時代に私的欲望が社会を駆動するといった議論を展開したので、炎上したそうなんです。それもすごく今っぽいなと思いました。

メグ忍者
デモのシーンを入れたのは、韓国で尹錫悦大統領の弾劾を求めるデモを見たことがひとつのきっかけです。行く前にYouTubeなどで状況は把握してから行ったつもりなんですが、現場はかなり違いました。左派と右派に完全に分かれ、お互いが直接対決をしないように、別の領地でデモをしていたのがすごく印象的でした。一方、日本で安倍晋三氏の献花式を目撃したことがあったんですが、そこでも右翼と左翼の対立があり、そこに警察が介入していました。右派も左派も、どちらの立場の人たちも世の中をよくしたい、もっと生きやすくしたいと思っているはずなのに対立してしまう。なかなか難しい問題です。でも、モニタ越しやヴァーチャルな空間だったら、ちょっと対立がマイルドになるというか、ぼやけるような気がしました。結果的によくなるのか悪くなるのかはわかりませんが。

リン
もう一度タイトルの「eternal」について立ち戻ると、そういう意図があるかどうかはわかりませんが、永遠のヴァーチャルスペースに存在することがひとつの答えなのかなと。不死の体を手に入れたり、長い間存在するのって、物質世界では難しいですが、ヴァーチャルの世界ではできる。それは昔のユートピア思想とは違い、現代では技術的に可能になった。作品のエンディングでVRを使うことを選んだのは、時間や空間に縛られずに、永遠に労働ができる空間であるという前向きな意味にもとれる。

メグ忍者
いくつかのレイヤーがあるんですけど、VRでデモを見ているインフルエンサーと映像クリエイター。一方で冒頭から救済を求め続けている機関士と地中から這い上がってきた人、麻生と養蜂家がしている屋根の修復についての話、塾講師とジウンによる女性が好きなのか男性が好きなのかという問い……。複層的に会話が交わされている状況に、折り重なるようにVRという新しい世界がある。VR世界と現実世界の間は、行ったり来たりすることができる。見たくない現実世界を覆い隠すものとしてVRというアイデアが浮かびました。今お話してくれたリンさんの言葉にはすごく気づきがありました。「eternal」っていう言葉は、単純にずっと働き続けなければならない状況や、生きている限りは目的を持って生きなければならないという意味で使っていました。でも、今の時代、私たちのIDは現実世界とバーチャル世界に2つ存在していて、人生の中のIDは生命を全うしたら消されてしまうけど、コンテンツの中のIDって存在し続ける。そう考えられるのかも、と思いました。

国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ オル太『Eternal Labor』
Photo:相模友士郎、提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会


オル太
2009年に結成されたアーティスト・コレクティブ。農耕からインスタレーションまでを射程とした耕作/制作では、共同体や儀式、民間伝承、歴史的な出来事、土地/空間の固有性を再解釈しながら、現代における集団のあり方やアイデンティティを問う。特に、社会の中で周縁化された存在や、見過ごされがちな労働、歴史、慣習をフィールドワークを通じて掘り下げ、台詞、美術、人、空間、光、音、映像等の要素を緻密に織り込んで、舞台と美術の制度をかいくぐるようなパフォーマンス作品が特徴的である。メンバーは井上徹、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chi の5名。近年では国内外の芸術祭、劇場、美術館で横断的な作品発表を重ね、観客を巻き込みながら、現在と過去、リアルと虚構、性差、国などの境界線を、反逆的遊びをもって揺さぶるような体験を生み出している。

Photo © Puzzle Leung. Courtesy of Vogue Taiwan.

リヴァー・リン
視覚芸術、演劇、ダンスを横断するライヴアートおよびパフォーマンスの分野で活動するアーティスト/キュレーター。パリと台北を拠点に活動。キュレーションにおいては、ローカルおよび国際的なアート・エコシステムを横断しながら、アーティスト・コミュニティを強化する文化的空間や、脱植民地主義的な知の生成を擁護している。ドラマトゥルギー、コミッション、共同制作を通じて、クィア、フェミニズム、先住民のアーティストと密接に協働している。
主な継続的プロジェクトおよびキュレーション企画は、台北パフォーミング・アーツ・センターによるADAM、Camping Asia(フランス国立ダンスセンター〈Centre National de la Danse〉との共同企画)、インドネシア・ダンス・フェスティバルなど。これまでに、2023–2025年台北芸術祭のキュレーター、2025年リヨン・ダンス・ビエンナーレのゲスト・キュレーター、2022年アーツ・ハウス・メルボルンで開催された「BLEED」の共同キュレーターを務めた。


執筆:上條桂子
写真:鈴木竜一朗