
異なる文化を同じ舞台に乗せること——『Ring of Our Time』
「Welcome to Asbestos Hall」以外のプログラムで印象に残ったものにも触れておこう。
まずはWorld Opera Lab『Ring of Our Time』について。ナイジェリア、イラク、インドネシア、メキシコ、そして北ヨーロッパのアーティスト40名によるこの新作オペラは「5つの異なる文明の神話、儀式、そして音楽が融合する myths, rituals and music from five different civilizations meet」もので、異なる文化が出会う場としてのHolland Festivalを象徴するプログラムの一つと言えるだろう。
World Opera Labはこのような異文化交流からオペラを立ち上げることに継続的に取り組み、多くの実績を持つ団体である。だが今作については、異なる文化圏に属するアーティストの交流という点において一定の成果があったことは間違いないものの、作品全体としてはうまくいっていない印象を受けた。そもそも異文化交流を掲げながら、枠組みとしてオペラという極めてヨーロッパ的な芸術形式をわざわざ採用するのであれば、そこに批評的な視座は必須のはずである。しかし今作におけるオペラは、単にコラボレーションのための器程度の役割しか果たしていなかったように思えたのだった。
具体的な物語のレベルで見ても、複数の異なる文化は「ネタ」として都合よく使われてしまっているように思える。環境問題を主題とするこの作品の物語は、ウェブサイトでは次のように紹介されている。
私たちは自身の時代を古代の女神の目を通して見る。川の女神ティアマトはユーフラテス川の干上がった川底で泣き、大地の女神イネ・アヤは燃え盛るパーム油の森で迷い、海の女神オロクンは聖なる水を汚す油に呪いをかける。
We see our own age through the eyes of ancient goddesses: river goddess Tiamat cries at the bottom of the Euphrates’ dry riverbed, earth goddess Ine Aya’ gets lost in burning palm oil forests, and sea goddess Olokun curses the oil polluting her holy waters.
だが、ティアマトは川の女神ではないし(むしろメソポタミア神話においては淡水アプスと対置される原初の海を指す言葉のはずである)、大地の女神イネ・アヤはインドネシア・ボルネオ島の先住民族カヤン族の叙事詩から生命の木Kayo’ Aya’のイメージを借りて創作的に構成されたキャラクターと思しい。一方、海の女神オロクンは西アフリカ・ヨルバ族の神話からそのまま引用されており、まずはこのような神々の扱いの差異それ自体が問題と言えるだろう。
そこに差異がなかったとして、あるいはその差異に正当な理由があったとしても、神々をその神話体系から引き剥がし、一つの舞台の上に並べてしまうという手法は、異なる文化を尊重することの対極にあるようにさえ感じられる。舞台芸術の強みはむしろ、観客を含めた個々の身体が各々異なるコンテクストを背負ったままで一つの時空間を共有することができる点にあるはずではないだろうか。神々が順に一人ずつ出てきては歌い、という作品の構成も、この作品における神々の役割が単なる記号でしかないという印象を強めていた。批評家として他人に評価を預けるのはどうかとは思うのだが、私自身の観劇時にはそれなりに多くの観客が途中退出していたということも付記しておきたい。

引き裂かれる「現実」——『ROHTKO』
一方、ポーランドの演出家ルーカス・ツワルコフスキー(Łukasz Twarkowski)による『ROHTKO』は、ハレル作品と並んで今回の滞在で私が最も衝撃を受けた作品だ。タイトルは抽象画の巨匠マーク・ロスコー(Mark Rothko)のアナグラムで、実際に起きたロスコー作品の贋作事件からの着想によるもの。ロスコーが生きた当時と現代、二つの時代のニューヨークを舞台に、様々なレイヤーで「本物」と「偽物」が並置され、その境界で観客の知覚までもが揺さぶられることになるだろう。

「自身のプロジェクトをマルチメディアを通した現実拡張のコンテクストに置いている」というツワルコフスキー。今作では、舞台上に舞台美術を内包したコンテナのような装置が複数置かれ、それらをダイナミックに組み換えていくことで物語を展開していく。上演中はカメラマンが舞台上で起きていることを撮影し、それがリアルタイムで同じく可動式の巨大なスクリーンに映し出される趣向だ。
だが、スクリーンに映し出されるのはリアルタイムの映像だけではない。そもそも舞台上のスクリーンには開場中からある映像が映し出されている。フードデリバリーサービスの配達員が歩いている様子を横から映した、等身大のごく短いその映像は、リピート再生されることでそれが記録された映像なのだということを強調しているようでもある。だが、開演時間になると配達員は突如として観客=カメラのいる「こちら側」に向き直り、ぐんぐんと近づいてくる。そうして等身大という「リアルさ」が崩壊し、一方で観客の知覚が急激に現在へと引き戻されたところで作品ははじまるのだった。
過去のパートではロスコー自身が登場し、彼の物語が描かれる一方、現代のパートではロスコーの絵を扱うギャラリーとその周辺の人々、そしてロスコーの映画を撮ろうとしている人々が描かれる。しかしもちろん、舞台の上に登場する「ロスコー自身」とは登場人物としてのロスコーを演じる俳優でしかなく、そこに映画の中でロスコーを演じる俳優との違いはない。「ロスコー自身」を演じる俳優でさえしばしば役から降り、舞台装置を動かすスタッフの役割を担うのだからなおさらである。
本物/偽物の二項対立はこうして生身/映像、リアルタイム/録画、俳優/役、現在/過去(しかし舞台上の過去とは何か?)など様々に変奏され、混線していく。圧巻だったのは、舞台美術のダイナミックな動きとそれを映した映像の組み合わせによって観客の「現実」を揺るがすその視覚的スペクタクルだ。たとえば、舞台美術を内包したコンテナはしばしば俳優やスタッフによって大胆に移動され、向きや位置関係を変えていく。一方、舞台装置とともに移動し続けるカメラが捉える等身大の映像は微動だにせず、同じ画角を映し続ける。「現実」とそれを映した映像という、本来は同一であるはずの二対はそうして引き裂かれていく。その瞬間、私は時空間が歪んだかのような目眩を覚えたのだった。それはむしろ現実の方が私から遠のいていくような感覚でさえあった。

物語のレベルでは、ロスコーが抽象画家であるという事実がほとんど等閑視されていた点はややもったいなくも思えた。この作品においてロスコーは、一人のアーティストや人間というよりはむしろ、様々な二項対立を提示し揺るがすための装置として配置されていたと言えるだろう。もちろん、人間ドラマやアーティスト像の提示はこの作品の主題ではないのだが、本物/偽物の二項対立に対し抽象(画)をどのように位置づけるかという論点は、作品をより一層スリリングなものにし得たのではないかと思う。
休憩込みで4時間半という『ROHTKO』の上演時間を支えていたのは間違いなく、舞台装置の移動やカメラでの撮影など、俳優もその一部を担っていた精緻かつ驚異的なスタッフワークだ。しかしそれだけ大規模なプロダクションであるがゆえに、今の日本の状況ではツワルコフスキーの作品を招聘することは予算の面で相当に難しいだろうことが残念である(台湾や韓国ではすでに招聘が実現しているのだが……)。

おわりに
生きた身体とそこに流れ込むコンテクストを観客と共有するハレル作品と、テクノロジーと記号的操作で観客の知覚を撹乱する『ROHTKO』。生の体験であることに軸足を置きつつ好対照をなす両者は私にとってここ数年でも屈指の観劇体験であり、今回の視察が大いに実りあるものであったことは間違いない。
一方、今回の視察を通してローカルなLGBTQのコンテクストにほとんど触れることができなかった点については反省が残る。LGBTQ関連のイベントはナイトイベントも多いため、そもそも舞台芸術祭の視察との両立が難しいことに加え、プライド・アムステルダムの前月という時期もLGBTQ関連イベントの少なさに影響していたかもしれない。
さらに言えば、これは国際舞台芸術祭という枠組みに関わる問題でもあるのだが、今回のHolland Festivalにおいてはプログラムにおけるクィア要素の大きな割合をハレルが占めていたため、結果としてそれ以外の、特にローカルなLGBTQのコンテクストに触れる機会が減ってしまったことは否めない。もちろんこれは2025年版のHolland Festival固有の事情ではある。しかし2025年2月に訪れたAsia TOPAでは、3年に1度の国際舞台芸術祭のオープニングにローカルなクィア・アーティストであるウィリアム・ヤンの『Milestone』を委嘱新作として据えるなど、ローカルなLGBTQに光を当てる試みがはっきりとなされていたのだった。フェスティバル外でのLGBTQ関連イベントも多く、それらに触れることによって見えてきたものは間違いなくある。舞台芸術(祭)の視察とローカルなLGBTQの文脈のリサーチをどう両立させるかは今後も課題となるだろう。個別の視察の条件に拠るところも大きいが、一度軸足をLGBTQの側に移し、たとえばメルボルンのミッドサマ・フェスティバルのような大規模プライド・イベントを視察するのもいいかもしれない。
ローカルなLGBTQのコンテクストのなかで舞台芸術はどのように見えるのか。この問いは翻って日本において上演されるLGBTQ関連の作品を照射するものにもなるだろう。
執筆:山﨑健太
