撮影:井上佐由紀

同じことを何度でも反復・再現可能である/観客が舞台上で目撃する出来事は、たった一度きりしか起こらない。この原理的矛盾を忘却する(という錯覚)が、演劇を構造的に支えている。

マームとジプシーの代名詞である「リフレイン」は、俳優が「役」を交換し合い、細部のディテールを微妙に変えながら、同じシーンを反復する手法である。「今、この瞬間」しかない現実の断片、ただし「かけがえのない瞬間」とは程遠い、取るに足らないような日常の断片が、過去の記憶の反芻と重ねられながら繰り返されることで、「クライマックス」へ向かって熱量が感情的に高められていく。この演劇的カタルシスの獲得が、マームとジプシーが支持される大きな理由だろう。

本作『Curtain Call』では、「ある演劇作品が開演するまでの数時間」に、俳優、制作アシスタント、照明オペレーター、ヘアメイク、舞台監督らが楽屋やバックヤードで繰り広げる出来事がリフレインを交えて描かれる。舞台上には衣装ラックやスタンドミラーが置かれ、複数の役を演じ分ける俳優たちは、シーンの展開に応じて「衣装の着替え」を何度も行なう。そして終盤、「本番の衣装」に着替えた俳優たちが「舞台に上がった」瞬間に幕が閉じ、カーテンコールを迎えるという仕掛けだ。

作品のステートメントに、「『演劇』という営みそのものをテーマに据えたマームとジプシーの最新作です」と記載されているように、本作は、メタ演劇という批評性をどこまで持ちえるかが問われることになる。アクシデント続きで、二度と再現されないはずの「上演開始までの数時間」を俎上に乗せることで、リフレインという手法を、より実験的に、「演劇」それ自体に対してどのように向けることができるのか。

だが、本作を実見して感じたのは、リフレインという手法の一種の様式美化と、メタ演劇的な批評性の欠如である。開演に向かって準備を整える俳優や裏方スタッフたちが交わす会話では、「これから上演される作品がどのようなものか」が一切不明であり、その空白を代わりに埋めていくのが、どうでもよい雑談や凡ミスの連発である。楽屋に配達される弁当の悩ましいチョイス、差し入れのおやつの人気度、すぐになくなる湿布を誰かが私物化しているのではという疑惑。「カフェラテをこぼした」という遅刻の理由のしょうもなさ。照明や音響を出すキューになる重要な台詞の「間」を、何度繰り返しても覚えられない俳優。打ち上げで乾杯するビールを間違えて冷凍庫に入れて凍らせてしまい、開演直前にパニクる制作アシスタントは、「その話今じゃないでしょ」と周囲にやんわり指摘され、空気が読めない。「楽屋あるある」なのかもしれないが、プロとして本番へ向かう緊張感がまったくなく、これまでのマームとジプシー作品と同様、「女子高の部活ノリ」に心地よく包まれている。そこでは、発声のトーンが均質化され、リフレインによって役柄は交換可能であるが、カタルシスの中心を担う青柳いづみというヒエラルキーが確固として存在する。

撮影:井上佐由紀

より深刻なのが、演劇の構造それ自体に向けられる批評性の欠如である。「上演の舞台裏」を描く(はずの)本作だが、奇妙なことに、「演出家」は不在で透明化されている。現場の雑用係として描かれる「制作アシスタント」は登場するが、「制作」「劇場ディレクター」も不在だ。ジェンダーを含め、権力構造の不均衡性、ハラスメント、非正規雇用の労働環境といった構造的な問題は一切言及されない。「演劇に出会って初めて呼吸ができた」「今回も本当のことしか言わないから」といった青柳が終盤で放つ台詞は、藤田貴大自身の自己投影だろうが、「演出家」という権力の中心を透明化したまま代弁させるのは、あまりにナイーブではないだろうか。

また、シーンの転換に伴い、俳優たちは楽屋/舞台上で何度も着替えを行なうが、劇中で「本番の幕が上がる直前」に、青柳いづみが舞台中央で下着姿になって行なう「着替え」がハイライトとして演出されている点には、演出家/俳優という関係に加え、ジェンダーにおいても二重化された不均衡性を感じた(なお、男性の俳優も一人出演するが、彼の「着替え」は舞台中央で視線の集中とスポットライトを浴びることはない)。

だが、リフレインという手法自体は、もっと批評的なポテンシャルがあると筆者は考えている。俳優が役を交換して同じセリフを反復することで、内輪ノリの同質性や交換可能性よりも、むしろ差異や非対称性が浮かび上がるなど、実験性の余地はまだ残されている。固定ファンを維持するための様式美化にとどまるのではなく、リフレインの手法がもつ潜在的な批評性を拡張するような実験性を期待したい。


執筆:高嶋慈