
撮影:脇田友
すべての幽霊を皆殺しにできる革命はふたつ
ひとつは子どもをつくらないこと
もうひとつは自殺
どちらもひとりの真の自由意志で実行しなければ完成しない
ドイツの哲学者マックス・シュティルナーによる著作『唯一者とその所有』に由来するタイトルを持つdracom『唯一者とその喪失』(作・演出:筒井潤)は、暗闇を切り裂くような悲鳴に続く、このようなセリフからはじまる。幽霊を殺すとはどういうことか。シュティルナーの論を踏まえるならば、「幽霊」は社会のなかで生きる個人に取り憑き、そのあり方を規定する様々な概念を、あるいは転じて世界そのものを指す言葉である。それを知らなかったとして、連なる言葉の意味合いから、その「幽霊」という言葉がおおよそ「未来」のようなものを指しているのだということは明らかだろう。未来の途絶。世界の終わり。そのための方策。
シュティルナーの著作を踏まえたこの作品は、現実に起きたある事件をもとにしたフィクションでもある。舞台では冒頭で引用したセリフが発せられる前、戯曲上は「イントロダクション」と記されたパートでそのことが告げられ、「二階に暮らす日本人男性が、同じ建物の一階の弁当屋に勤めるベトナム人女性から金を奪い、そして彼女を殺害し逮捕される、というあらすじです」との説明がなされる。作中ではミッキーという名を持ち「五十代前半氷河期世代」とされるトラックドライバーのその「日本人男性」は、弁当を買う金にも困った末、ベトナム人女性から金を奪うという行為に及んだのだった。シュティルナーの著作において「唯一者」という言葉がおおよそ「自我」を、その「所有」が他の何ものでもなく自分自身によってのみ自らが規定された状態を指していることを踏まえれば、『唯一者とその喪失』というタイトルはミッキーが追い込まれた状況を指すものと解釈できる。強盗殺人に至る彼の人生は自らの意志によって選び取ったものではなく、家庭環境や社会の状況、そしてその変化によってもたらされたものだからだ。幽霊殺しという「革命」はそうして追い込まれたどうしようもない状況へのせめてもの抵抗として構想されたものと言えるだろう。
上演は極めて限定された要素によって展開される。舞台となるのは弁当屋のカウンターとミッキーの部屋。本来であればそれぞれ一階と二階にあるはずのそれらは、舞台の上では横並びに提示され、ほとんど一体化しているように見える。登場人物はミッキー(筒井)の他に、ベトナム人女性の弁当屋従業員(髙山玲子)とその弁当屋の店長の女性(住吉山実里)、そしてミッキーと同じく就職氷河期世代でありながら「勝ち組」となった、ミッキーが勤める運送会社の御曹司(岡村ゆきを)の三人。従業員に言葉は与えられていない。他の三人が発する言葉の多くは独り言めいて鬱屈している。ときにミッキーとの間で交わされる会話もまた、その鬱屈を深めていくのみである。
観客が体感することになるのはミッキーが感じている空気だ。なかば詩のように様式化された言葉と振り付けのように戯画化された動きはたびたび繰り返され、積み重なる言葉と日々が抜け出しがたい生の圧力をじわじわと高めていく。その繰り返しは殺人の瞬間にも及び、舞台上でその瞬間は繰り返し再現されることになるだろう。何度思い返そうとも抜け出すことの叶わないループ。
作中でこの繰り返しは春という季節によって象徴されている。舞台にはしばしば「学校の卒業式や入学式でよく使われるクラシック音楽」が流れ、ミッキーの部屋のテレビには桜の映像が流れ続ける。だが、風に乗ってどこかから聞こえてくるその音楽は、ミッキーにとっては「呪いのリピート再生」でしかない。季節と音楽は新しい日々の訪れを告げるが、ミッキー自身はどこにも行けず繰り返す日々に閉じ込められたままだからだ。部屋の窓に映る赤と黄の光、資本主義の象徴たるマクドナルドの看板のそれは、彼が取り囲まれている世界の有様を示している。
一方の御曹司は同じ音楽を「この国に生を授かった感動のリピート再生」と呼ぶのだが、その内実は個々人の生への祝福というよりは資本主義の原理に個人の生を繰り込むものでしかなく、その意味で、ミッキーはもちろん御曹司も、そして言うまでもなく弁当屋の店長や従業員もまた、同じ構造のなかに組み込まれた人間であるという点においては変わりがない。「春はどこですか」と店長も問うているように、抜け出せないのはミッキーだけではないのだ。

撮影:脇田友
ところで、この作品においては殺害されたベトナム人女性にもベトナム語で「春」を意味する名が与えられており、殺人は明らかに「春殺し」という象徴的な意味を帯びている。だが、春を殺してもミッキーの革命は成就しない。むしろ、春を殺してしまったことによってミッキーの革命は挫折することになるだろう。
殺人の場面は回想の無言劇として二度演じられた後、三度目のそれは犯行のまさにその瞬間として演じられる。だがその直後、ここまで言葉を与えられていなかった従業員は、まるでミッキーに語りかけるかのようにして語り出すのだった。
おじさんが弁当を買えなくなったから
こんなふうにしかお話できません
でもおじさんが弁当を買えていたら
こんなふうに話を聞いてくれましたか
彼女の語りのなかで赤と黄は社会主義国家であるベトナムの国旗の色へと、血と団結のそれへと変容する。語られるのは彼女の曾祖母の、祖母の、母の生きたベトナムの話であり、彼女へと連なる命の話だ。
やがてミッキーは自ら命を絶とうとするが失敗する。
革命失敗
まだ耳に残っている
あれは産声
冒頭で響き渡った悲鳴はここで産声に転じている。ミッキーはそれによって生かされたのだ。説明された「あらすじ」とは裏腹に、訪れた警官にミッキーは逮捕されないままにその場を去り、警察官は「横たわる従業員を見つけることができない」。ひとり残された従業員はやがて起き上がり、閉め切られていた部屋の窓を開ける。そこに観客が見るのはしかし外の風景ではなく、鏡に映る客席の自分たち自身の姿だ。ミッキーや従業員を取り巻く世界を構成する一員としての私たち。そこで起きていることから視線を逸らし、話を聞くこともしてこなかった私たち。だが私たちはその場に居合わせ目撃し、その声に耳を傾けてしまった。ままならない人生に対するミッキーの絶望を示すかに思えた『唯一者とその喪失』というタイトルは、人はどうしようもない関わり合いのうちにしか生きられないのだという、かろうじての希望へと読み換えられる。すでに起きてしまったことは取り返しがつかない。だがそれでも、「この春が終われば季節もまた移り変わります」。そうして連なる先に、繰り返すこの世界からの脱出を思い描くこと。
執筆:山﨑健太
