
提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会
撮影:相模友士郎
男と女、炭鉱労働、そして朝鮮と日本。冒頭から矢継ぎ早に提示されるキーワードが示唆するように『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』は森崎和江を参照項の一つとしている。朝鮮に生まれ育ち、一時を福岡県・筑豊の炭鉱町で過ごした森崎は、『まっくら 女坑夫からの聞き書き』や『からゆきさん』など、女性と労働について書き続けた詩人・作家だ。オル太は茨城県・日立鉱山に取材した『生者のくに』(2021)でもその著作を引用しており、今作では同じくジェンダーと労働という視点から蜜蜂というモチーフも導入されている。二つの作品はどちらもゲームと上演の二部構成になっており、両者はある種の続編の関係にあると言えるだろう(ただし、『生者のくに』はコロナ禍での発表だったため、ゲームについては観客の各々が上演の前にオンラインで体験する形式が採用されていた)。
さて、しかしまずは物語を確認しておこう。主な舞台となるのは炭鉱の閉山によって過疎化が進んだ日本の(おそらくは九州北部の)ある町、そしてソウルだ。登場人物は多い。塾講師。受験勉強に臨むミキとジウン。それぞれをシングルマザーとして育てる母親。ゲームセンターの店員。インフルエンサーの男とそのパートナーである映像クリエイターの女。エコフェミニストを標榜する養蜂家の男。そしてその隣人等々。炭鉱の町にもとから住む人々とそこから出ていきたいと願う者、そして移住者たち。一方のソウルでは何らかの理由で女性機関士が地下鉄に閉じ込められ、どうにか避難所に辿り着こうとする道すがら様々な人(?)と遭遇する。
オル太の他の作品と同じように『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』もまた、一つの物語を示すというよりはそれに抗うようにして複数の筋やイメージを併置し、そこに立ち上がる距離やズレによって観客の思考を触発するようなつくりになっている。たとえば、日本の炭鉱とソウルの地下鉄とはイメージの上で重ね合わせられるのみならず、舞台装置の斜面(その傾斜は訓練用の坑道と同じ20度に設定されている)という極めて即物的なかたちでも提示されている。その上では、ときに映像クリエイターが四つ足の獣のような姿勢でインフルエンサーの載る台座を引き上げようとする様子が演じられるのだが(もちろんそれは物語のなかで実際に起きていることではない)、それは炭鉱労働者の労働の反復であると同時に、男性の立身出世の裏で支払われ続ける女性たちの犠牲を身体的な負荷というかたちで具現化したものでもあるだろう。さらにここには、女王蜂を頂点とする女社会を構成しながら、養蜂家という男に使役される蜜蜂の姿も重なって見える。

提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:相模友士郎
あるいは、斜面の上で演じられる冒頭の場面では、電車に乗り合わせた二人の男が言葉を交わす。だが、一方が韓国語で話しかければもう一方は日本語で応じ、韓国語で話しかければ日本語が返るという具合でそこがどこなのかは判然としない。最初に韓国語で話しかけていることを踏まえれば韓国だろうか? しかし崩れるスーツケースの山を落盤事故にたとえる戯曲の記述は、日本の炭鉱における朝鮮人の強制労働を思わせる。「炭鉱労働者」と括られる人々のなかにも立場の違いがあり、その背景には日本による朝鮮の植民地支配がある。スーツケースを積み上げた男の「席交換しますか」という提案はアイロニカルに響くだろう。そもそも席の交換は不可能だからだ。
オル太はこのように即物的な舞台装置や身ぶりを大いに駆使して、異なる複数の物事を縺れたかたちで提示する。その縺れは現実の提示である一方で、たとえばソウルの地下鉄1号線はなぜだか東京メトロと通じてしまうようなかたちで、私たちが囚われた一つの枠組みから別の枠組みへと思考の跳躍をもたらすための逃走線としても機能するだろう。

提供:国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:相模友士郎
一方、『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』という作品の構造面はゲームというモチーフによって支えられている。公演時間外の会場は鑑賞者が4つのゲームをプレイできるインスタレーションとして開放されており、炭鉱を模した斜面や穴で構成された会場は同時にゲームセンターでもあるという趣向だ。だが、鑑賞者は安全な立場からただゲームをプレイできるわけではない。なぜならそこはゲームセンターであるのみならず、ゲームのフィールドそのものでもあるからだ。登場人物がまるでクレーンゲームのように業務用のクレーンによって吊り上げられる様子はそのことを如実に示している。「鑑賞者」はすでにゲームに巻き込まれているのだ。
このことは上演とゲームの入れ子構造によっても示唆されている。上演の終盤にはインフルエンサーと映像クリエイターがバーチャルソウルでデモに参加する場面が描かれるのだが(それは2024年の非常戒厳令を背景とするものだ)、そのデモの様子はあらかじめ「闘争ダイアローグ」というゲームに組み込まれている。デモの参加者らを観察し、そこにいる人々が発する言葉を収集することを目的としたこのゲームにおいて、その言葉は単なる得点としてカウントされ、内容が問題とされることはない。それと呼応するように、最初は右派のデモに参加していたインフルエンサーは左派のデモにも参加し、あろうことか署名までしてしまう。「署名しちゃっていいの?右派じゃなかったの?」と問われたインフルエンサーがこう答えて上演は終わる。「どっちでもないよ。左派の登録者が少ないから。経済のためにそうしてるだけ」。全てが数字に還元されてしまう「現実」を背負わされ、その論理を体現しているのがインフルエンサーという存在なのだ。
あるいは「ジェンダー・マッチング」というゲームでは、ポストビーヒューマンと呼ばれる生物について「パーツを付ける場所の選択により、様々な性の形が創られる」ことが謳われている。しかしそのゲームの目的は「順番通りにボタンを押して制限時間内にできるだけポストビーヒューマンをより多く生成」するというものであり、創られる「様々な性の形」は大量生産のための単なるバリエーションに過ぎない。性の差異もまた計量可能な単位へと変換され、既存のジェンダー規範を揺るがすような力はあらかじめ排除されてしまっている。
ところで、実は『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』というタイトルは、インフルエンサーのアカウント名に由来するものだ。それは「永遠に働き続ける人間をどうにか止めたい」という思いからの命名らしいのだが、しかし「いろんなブルシットジョブみたいなのを集めてる」という彼の仕事自体、ある種のブルシットジョブであることは言うまでもないだろう。だとすれば、『Eternal Labor(エターナル・レイバー)』という作品はそんな「ブルシットジョブ」で構成される現実からの抜け出し難さを示すものなのだろうか。
答えはイエスでもありノーでもあるだろう。ゲームという枠組みは両義的だ。「闘争ダイアローグ」はデモに集まった人々の主張を単なる数字へと矮小化してしまう。一方で、ゲームを通じてそのように現実を眺めることは、そのような視点で世界を捉える存在がいるのだと意識することでもある。さらに見方を変えれば、ゲームの世界の出来事は、上演されることで現実に対する力を持ちはじめる。そういえば、ゲームセンターにやってきた蜜蜂を捕らえるために使われたのはゲーム用の虫取り網だった。バーチャルソウルで行なわれているはずのデモは生身の俳優によって演じられ、同じく生身の観客と時空間を共有していた。人間はゼロかイチかでは割り切れない。上演は、全てが数字に還元されてしまう現実を人間の側に引き戻す抵抗の身ぶりであり、観客もまた、そこに立ち会うというかたちでその身ぶりを共有しているのだ。
オル太
「Eternal Labor(エターナル・レイバー)』
日程:2025年10月10日(金)~19日(日)
会場:愛知県芸術劇場 小ホール(愛知県)
公式サイト: https://aichitriennale.jp/artist/olta.html
執筆:山﨑健太
