2023/5/5(Fri)~2023/5/6(Sat)北千住BUoY(東京都) ©︎Deafbirdproduction2023 *初演の舞台写真
『「聴者を演じるということ」序論』はそのタイトルが示す通り、聴者を演じるということがどういうことかを考えるための、いや、考えはじめるためのパフォーマンスだ。だが、この作品の上演においてそれがどういうことかを考えることになるのはアーティストではない。観客である。
さて、この作品はその性質上、そこで起こることを知らずに見る観客に対してこそ最大限の効果を発揮するものになっている。今後も再演されていくであろうこの作品に興味を持ち、かつ未見の、つまりこれから観ることになる可能性が高い方には、ここから先の文章は読まずに再演の機会を待つことを強くお勧めする。
観客は公演会場の受付でA4で2ページの上演台本を手渡される。そこには小山と木多という二人の人物による会話が記されており、どうやら二人は(保険関連の会社の?)上司と部下の関係にあるらしい。カフェにいる二人がお辞儀で顧客を見送るところからはじまるその場面の会話では、その顧客の家族全員の耳が聞こえないことを起点に手話をめぐるいくつかのトピック(かつてトヨエツのドラマが流行ったことやありがとうの手話はどうやるかなど)が話題に上がるが、全体としては上司と部下との間での他愛もない雑談という雰囲気である。
上演がはじまるとまず、この台本を數見陽子と山田真樹の二人のろう者俳優が演じる。演じ終えると演出の牧原依里が登場し、この上演が「ろう者が聴者をいかに演じられるか」をテーマにしたものであること、そのため観客から二人に、より「聴者」らしく演じるためのフィードバックをしてほしいということを観客に伝えるのだが、合わせてその際に守るべきルールとして①フィードバックは「より聴者へ近づくため」の箇所に限る、②指摘は一人一箇所のみ、③フィードバックにあたってはその箇所を指摘するだけでなく合わせて演技指導も二人に行なうことの3点が伝えられる。そして改めて同じ場面が演じられた後、観客によるフィードバックが行なわれ、最後にそれらを踏まえた再演が行なわれるというのが全体の流れだ。
しかし、フィードバックを求められた私は困ってしまったのだった。二人が完全に聴者に見えたというわけではない。というより、二人の発話が聴者のそれとは異なっていることはあきらかだった。だが、それを指摘することは三つ目のルールによってあらかじめ封じられている。ほとんどの観客にとって、発話を聴者のそれに近づけるための演技指導は不可能なものだからだ。では他にどこを修正すればより「聴者らしく」見えるだろうか。そう改めて考えてみても、私には指摘すべき点が思いつかなかったのである。
なぜか。一つには、私がこれまで聴者がどのような存在であるかなどということを考たこともなかったということがあるだろう。一般に、社会においてマイノリティのアイデンティティが繰り返し問われ続けるのに対し、マジョリティのアイデンティティは多数派であるがゆえに自明のものとされ、それがどのようなものであるかをことさらに問われることはない。それが「普通」であるということだからだ。異性愛とは何か、シスジェンダーとは何かが問われることが稀であるのと同じように、聴者とは何かが問われることはほとんどない。「聴者らしさ」とは何かを考えたこともない私に、「聴者らしく」見えるための演技指導などできるわけがなかったのである。
と言いつつ、私にも演技を修正したい箇所が全くなかったわけではない。だが、それらは演技の巧拙や演出、あるいは登場人物の個性の範疇に収まるもののように思え、「より聴者へ近づくため」の修正として指摘するのは躊躇われたのだった。これが二つ目の理由である。念のため付け加えるならば、ここでいう演技の巧拙とは「聴者らしさ」ではなく演技のリアルさに関わるものだ。このようなことが気になったのは、私が演劇に慣れ親しんでいることとも無関係ではないだろう。
しかし、そんな私の逡巡をよそに、客席からはいくつかの修正が提案されていく。それはまさに当日パンフレットに記された「観客は今まで「個人」とされてきた「聴者」がカテゴリーで括られることを目撃する」という言葉の通りの事態だった。観客の指摘の多くは、聴者であればこうあるべきというイメージの押し付けだったと言うことができるだろう。そのイメージはステレオタイプとしてあらかじめ共有されたものではなく、その場で見出されたものだ。しかもご丁寧なことに、提案された修正が採用されるかどうかは(その多くが聴者である)観客の多数決によって決定されるのである。そうして、見出されたイメージがある種のステレオタイプとして観客のあいだで共有される(あるいはそれに失敗する)過程もまた提示されることになる。このとき、人がどのようにふるまうかは人によっても時と場合によっても変わってくるというごく当たり前の前提条件は、「聴者」というカテゴリーのもとに抑圧されることになるだろう。たとえば、日本では未だにゲイ男性がフェミニンな人物として表象されることが多いという事実を思い出してみればよい。このパフォーマンスは、マイノリティの表象において頻繁に起きていることをマジョリティの表象へと反転してみせる試みなのだ。
だがこれはマジョリティであれマイノリティであれ多様な人がいるのだという単純な結論で済まされる話ではない。ここで改めて問われているのは、それを当然の前提としたうえで、ある属性を持つ人々を演じるためにはどうすればよいのかということだ。そう考えたとき、私がこのレビューの前半部に記した「ここでいう演技の巧拙とは「聴者らしさ」ではなく演技のリアルさに関わるものだ」という言葉が端的に間違っていたことは明らかだろう。「聴者らしい演技」において「聴者らしさ」とその演技のリアルさは切り離せるものではない。「聴者であること」ではなく「聴者を演じるということ」。「序論」と銘打たれたこのパフォーマンスを通して、私はようやくそれについて考えるためのスタート地点にいる。
以下では蛇足ながら、観客からの指摘のなかで最も興味深かったものに触れておきたい。その指摘は「聴者であれば電車の通過中はその音で会話が中断されるはず」というものだった。今回の公演会場となった高架下スタジオSite-Aギャラリーはその名前の通り京急線の高架下の空間にあり、電車が頭上を通る音は上演中にもしばしば聞こえてきていた。セリフが聞こえなくなる=お互いの言っていることがわからない程度には大きな音がしているのだからその間は会話が中断するのが自然であるというのが指摘の趣旨なのだが、しかしよく考えてみればこの指摘は奇妙である。演劇においては、舞台上で演技をしている俳優は舞台の外で発生する音に対して反応しないのがスタンダードだからだ。俳優は電車の音など聞こえないかのようにふるまうのがむしろ正解のはずなのだ。にも関わらず、観客からは「電車の音に反応して会話を中断する」という修正が提案され、それは多数決によって採用されてしまった。このとき、「聴者を演じる」ための場は舞台というフィクショナルな空間から現実のそれへとスライドしてしまっている。いや、実際には聞こえていない音に反応することを求められているのだから、そこにこそむしろフィクションが立ち上がるのだと言うべきだろうか。いずれにせよ、おそらく俳優が聴者であれば(=単にリアルな演技のための修正を求められたのであれば)このような指摘は出なかったはずだ。それはなぜか。ここにもまた、演じることとその知覚をめぐって考えるべきポイントがあるだろう。
執筆:山﨑健太